朱い沢 金の森

アイリスたちが住んでいるキオリヴア侯爵領イヴィーチから遥か西。
広大なグルナード湖を渡り山塊を越えるとタンウェブ伯爵領がある。
山の中で豊かな土地ではない。
ただ領地の南端が皇帝の都ムスティン・ディオールネに繋がっているから、
重要な戦略拠点と言えた。都と伯爵領の支配者たちが対立している現在なら尚更である。

とは言ってもすぐさま戦争が起こるとか、そんな物騒な事にはなっていない。
雲の上にいる人々の奇怪な対立関係は下々にとっては理解の外だ。
詳しく知りたいとも思わない。自分たちの身近で厄介事さえ起こらなければ、
誰が支配者になろうとも文句はなかった。

錬金術工房の徒弟であるアイリスもそんな一人だ。
彼女にとってタンウェブ伯爵領は、不遜にも皇帝家から帝冠を奪い、
自分たちが養っている別の皇族に与えようと考えているフォリヴァス一族の領地ではなく、
単に希少な原材料を産出する地方であるに過ぎない。

ただし、知っていると行った事がある、は完全に別物だ。
十四歳の彼女にとっては地図上の名前か、
あるいはグルナード湖の向こうにある山々を越えた先の土地、
と思いをはせる他には係わり合いのない場所だ。

バルジン親方に、こう言われるまでは。

「『丹』を採ってきてもらいたい」

「何ですって?」

それまで言いつけられていた調合作業を止める事なく、彼女は師匠に問い返した。
榛色の髪と意志の強い同じ色の瞳を持つ彼女は、自分の作業を中断する事ほど嫌いなものがない。
言いつけられた事に優先順位をつけて完璧にこなす。
それが一人前への近道と頑なに信じているところがある。
既に両親を亡くし、それぞれ仕事を持っているとはいえ幼い弟妹を抱えている彼女としては、
早く一人前の稼ぎを得て扶養家族を養わなければならない義務があった。
強気な性格がそうさせているのか、他の人間はともかく両親の親友であった師匠に対して、
彼女は妙に当たりが強いのだ。

バルジン親方はそれを気にした事がない。自分以外の人間には大抵愛想のいいこの娘が、
こんな風につっぱらかっているのは自分に対する甘えだと解釈しているからだ。
彼女が彼女自身や他の連中が思うほど器用な人間ではないと確信している。
だから作業の邪魔をされて多少棘のある言い方になっても、バルジン親方は彼女を咎めなかった。

「『丹』だよ。『丹』」

「・・・ああ、朱紗ね・・・何で私なんです?」

「手の空いた山歩きが得意で、錬金術の知識を持つ適当な人間がいないから」

「人をやって採りに行かせればいいじゃないですか。私だって忙しいんですけどね。いただいた仕事で」