彼と彼女と僕と海 |
最初の航海を終えてイクサルのバッセロフィ運河(カナーレ)にある 船着場に帰ってきた時だった。最初の航海、最初の商売を終え、 そして無事に帰ってきた僕は男として一皮剥けたような清々しい気持ちで艀(はしけ)を降りた。 今まで乗り組んでいた『バジェットU世号』の船乗り仲間たちも、 本国に無事に帰りついた喜びもあってか僕を手放しで褒めてくれた。 次の航海も一緒に船に乗ろうと言ってくれた。 たかが会計士見習いだった僕は航海士見習いというにもおこがましいけれども、 皆に認められ役に立てた事が何よりも誇らしくて、少しばかりはしゃいでしまっていた。 その時、『バジェットU世号』の乗組員たちを出迎える人々の群れの中から風のような影が現れた。 敏捷な影は上陸したばかりのバジェット船長に噛み付いている。 そういえば義兄さんの姿が見えない。どこへ行ったのだろうか。僕は無防備にも辺りを見回した。 視界の端では大柄な船長が小柄な影にさんざんにやっつけられている。 あの船長をたじたじにさせるなんて、一体どんな人なのか。そんな事も少しは気になったが、 しかし相変わらず僕はおのぼりさんのように辺りを見回していた。 突然鋭い罵声と平手打ちの声が聞こえる。 何事かと振り向くとバジェット船長が頬を叩かれていた。頬を叩いたのは小柄な影だ。 呆気に取られるまでもなく影が近付いてくる。そして僕も船長のように頬を殴られた。 頭には当惑。頬には痛み。けれども僕の瞳がとらえたのはしなやかな少女の四肢。 そして彼女の怒りを隠せない顔に映えた金色の猫目。 僕は頬の痛みを忘れてその金色の瞳に見とれていた。義兄さんと同じ小鬼(バーク)の瞳。 褐色の肌。黒い豊かな髪。可愛らしい小さな顔、髪の毛の生え際に生えた二つの小さな角、 そして金の瞳には微かに嘆きの涙が光っている。怒りの下に嘆きを透かし彫りにした少女の顔。 僕は見とれてしまった。頬の痛みも忘れて、 走り去っていく彼女の後ろ姿から目が放せなくなってしまっていた。 彼女が人込みの中に消えていくのにさしたる時間はかかっていない。 でも僕には永遠であって欲しい時間だった。 泣いていた褐色の少女。小鬼(バーク)の少女。軽やかな身のこなしと愛らしい顔。 豊かな黒髪。金の瞳が濡れていた。 もしかしたら僕は恋に落ちたのかもしれない。 その事を自覚したのは、それから随分後の事だった。 |