新月〜intermission〜

彼の前半生はひどく平凡だった。物心付いた時には既に二親は存在せず、
そしてたった一人残った肉親である双子の兄も、まもなく生き別れていた。
その事自体はそんなに特別な事ではなかった。このラオデキアという国では、
常に何処かで戦があったからだ。それに疫病もよく流行った。
野盗に一箇村を全滅させられる事も時々あるぐらいだ。人の死は生と同じぐらい溢れていた。
ちょっとぐらい一族の死が重なったからといって特別視するほどでもない。

その証拠に彼が幼い頃から育った寺院には孤児が山ほどいた。
裕福な人々が己の良心を納得させる為に寄付を行わなければ、
いかに裕福な地主である寺院でも、とっくの昔に破産している。

僧侶達は優しかったが同時に厳しくもあった。働かない者は食ってはならない。
素直な質の彼は物覚えが良く、僧侶達の教え通りに土をいじり、土を耕し、土にまみれた。
彼は真面目な農夫となっていった。

「お兄さんは、あれほど人目を引く子だったけれども、この子はまるで目立たないねぇ」

双子の孤児だった彼とその兄は、よくそんな風に比べられた。
しかし兄の方は彼が物心つくかつかない頃に人に預けられているから、
彼自身は兄がどんな子供だったのか知らない。顔立ちは良く似ていると言われたが、
しかしその印象はまるで異なると誰もが言った。

水鏡に自分の姿を映してみる。白く乾いた土がこびりついているが、黒い髪だ。
土埃で汚れているが白い肌をしている。そして瞳は上から紫、茜、薄桃色に変化する夕闇色だった。
大人しい小農夫の顔だ。
顔立ちは小綺麗と言えない事もなかったが、しかし人を引きつけるほどではない。
愛嬌がないものだから、引き取り手がいなかったのだ。

この顔に愛嬌を加えたら兄の顔になるのだろうか。

彼は少し考えた事があったが、しかし結局想像もつかなかった。
愛嬌ある自分など想像もできなかったし、野を這い地を耕す自分以外を想像する事は不可能だった。
そんな事は農作業には必要ない。彼は何処までいっても農夫だった。

確かに農夫には愛嬌も想像力も必須のものではない。
必要なのは純朴で粘り強い労働への情熱だ。丹念に畑を耕し、麦を慈しみながら育て、
日照りを憂い、害虫を厭い、雑草を嫌う。休閑地での放牧はいい気晴らしだ。
そして収穫と蓄獣の出産を何よりの喜びにすればいい。
今日と同じ平穏が明日も続く事を祈ればいいのだ。それは農夫にとって普通の事だった。

愛嬌はないが完璧な農村の働き手だった彼は、やがて村の荘園主に認められた。
ちょうど荘園主には召使に生ませた年頃の娘がおり、その縁付けに苦慮していた荘園主は、
土地と農地の持参金をつけて娘を嫁にくれた。立場は荘園の小作と変わりはしなかったが、
しかし自前の家と農地を持つ事など、孤児院出身者の立場を考えれば大変な出世でもあった。
しかも荘園主とは義理の親子の関係になったのである。
働き如何では一介の農夫から、ちょっとした豪族になる事も夢ではなかった。

しかし唐変木の彼にはそんな野心はなかった。ただ彼は、
密かに憧れていた娘を妻に娶る事ができた事を、そして家族ができた事を喜んでいた。
二十歳の彼に、これ以上喜ばしい事はない。