新月〜碧眼〜上

暗い空の下、遠くに雷鳴が轟いた。
しかし顔を伏せうずくまった彼女の耳にそれが届いたとは思えない。
自分の半身を覆い隠すほどの巨大なタワーシールドは見かけほど重くはない。
彼女の所属する神殿の宝物であるその巨大な盾は、
身につけた者の傷を徐々に癒す力がある魔法の器物だ。魔法の物品は相対的に軽い。
左手にある盾の大きさに比例して片手で十分扱える大きさの物騒な棘がついた鋼球を先端につけた、
『こんにちは』という名前の鎚の方が実は随分と重たいのだ。
女性としては随分しっかりした体つきではあるが身につけた鎖帷子がいかにも重たげに見える。
目立つ顔立ちではないが、娘らしい優しい顔立ちにははっきりとした疲労の色が見えた。
束の間の休息を得ているようにうずくまったまま白い瞼を閉じている。

辺りは戦装束の彼女が佇むにらしく地獄絵が広がっている。
転がる無残な死体は戦士の物もあれば女子供老人の物もある。
中には人外の人とも怪物とも取れない姿の死体まで転がっていた。
数時間前まであった家々は全て炭と灰になっている。
あたりはまだ燃える炎のはぜる音と微かに立ち上る煙の匂いがそこかしこに散らばっていた。

ほんの先ほどまでここは戦場だった。それはこの世界に於いて珍しい事ではない。
俗に七つの王国が存在し王が人々の世界を支配しているが、それは一握の土地についてに過ぎない。
一つの王国に一人の王が存在するが、王が王国全てを支配した事はかつてなかった。
王とは諸侯に推戴され形式的に認められた諸侯の一人に過ぎない。
当然実力は他の諸侯と何ら変わることなく、
王にその器量がなければ王国の覇権を諸侯と激しく争う事はままある。いや、それが普通だった。
諸侯は利害関係によって集合分裂を繰り返し、
それに人外の怪物や亜人たちが加わり戦乱をいっそう酷くしていた。

彼女は慈愛と豊饒を司る神に仕える僧侶だ。
人々に平安な暮らしをもたらす事を自らに課す教えてを頂いている。
そしてつい先ほどまでその教えに沿って戦った。
この村を襲ったのは魔王と恐れられる人物の軍勢だった。

よくあるおとぎ話だ。太古の昔から存在する七人の魔王。
母親が子供をおとなしくさせるのに良く使う怖い怖い別世界の人物。

しかし七人の魔王のうち二人までは現実に人々に実害を及ぼす存在だった。
一人はテアテラの女王、一人はペルガモの騎士王。だがその配下が特別非道である事を除けば、
やっている事は他の諸侯と大差なかった。
それゆえに王や諸侯は二人の魔王に対して何ら特別の恐怖も嫌悪も持っていなかった。

だが一般民衆は違う。他の諸侯の軍勢に襲われれば財産は強奪され娘は犯され、
働き盛りの男達が戦に駆り出される事はあっても、例外なく虐殺される事はない。
しかし魔王の軍勢が攻め寄せてきたら待っているのは惨たらしい死だけだった。

慈愛の神に帰依する彼女とて諸侯の軍勢がなす非道を看過する事はできない。
しかしそれより酷いのは人間を殺戮するしかない魔王たちの行為だった。
ある村に魔王に服従する軍勢が攻めてくる。
その知らせを聞いた彼女は村が雇った傭兵たちや自警団に混じって戦いに参加した。
神殿の宝である治癒の盾を持ち出してまで。